H教室の論争
林 敬二(芸大油絵科34年卒)
卒業も迫っていた頃、或る日教授が急に学生に招集をかけた。学生達の多くは自分の仕事場で制作していたものだから一体お互いがどのように仕事をしているかもわからなかった。例年9月か10月頃になると卒業制作に関する注意事項が掲示されたものだがそれによると、50号以上100号くらいまでの人物を主体とした具象作品ということになっていた。
おそらくは過去4年間による人体制作の集大成としたものが予想されたものだが、こうした時期に入る以前の平常制作にかなり前衛的な制作をしていた仲間達にとって、その具象的基準とはどういうものかわからなかった。
それとなく頭部が朧ろに残っていればいいのだろうと冗談に言ったものだが、ちょうどこの頃、神田の画廊でグループ展を発表した。そこでは全く非アカデミー的な、少なくとも全く学校での仕事とは縁遠い反逆精神をむきだしにしたものだった。それでなくても当時のH教室は「弁天教室」という異名をもってモデル仲間からも奇態なポーズをやるからといって敬遠されがちだったが、しかし仕事は非常によくやる仲間が多かった。「弁天教室」とはつまり裸弁天のようなポーズを最初にやって出た言葉だが、そのうちには学生として勉強するにあまり適当でないポーズとか、勉強にならないポーズだとかでそれが教授会の話題になったらしい。だが直接には注意を受けることはなかった。学校に入って幾らもたたぬ中から、もう未来のH教室組は教授側からはマークされていたようだった。この展覧会の折には油絵科の教授が殆ど見に来たが、壁の前を素通りして無言で帰った。学校に反抗している態度なので、それは無理からぬことだったのがそのくらいに前衛作品には冷たかった。そしてその直後に招集の速達を受け取った。それは恐らくこの展覧会が契機となって教授会で問題を醸したものと思われた。果たしてその内容がどんなものであったかは詳しくは知らないが、学校の教育方針との隔たりが甚だしいこと。また卒業を前にしてあのような前衛作品をならべられたとは学校側が危惧してか知らないが、少なくともその日H教授の呼び出しは教授自身の個人的忠告であったと思う。7、8人の学生が久しぶりに顔をあわせた。ストーヴの周囲に円陣をつくって教授の来るのを待った。
教授は卒業制作にあのグループ展のような作品を提出する積りかと言ったものだが、それから話が発展して「具象と抽象」の問題になった。最も今日的な問題として――― そしてまた学生の立場として当時学校での仕事と周囲の集団の仕事とはかなりギャップがあったように思える。そしてそれは今でも変わらずに連なっていることでもある。アカデミーはいずれにしても別世界であった。住み心地がいいのに反して一歩外に出ると全く違った仕事が山積みしていて常に疑問がもたれた。そうした結果、学校の制作と自分の仕事場での制作と二重の解答が出る場合があった。
教授は時流に流されることを幾回か忠告していた。『つまりきみたちは若いから目の前に美しいスミレが咲いていると、それを摘もうとする。だがそのスミレは実は沼地に咲いていて、ともするとそのスミレを摘む前に足を奪われてしまうことをしらない。何よりもそれに気をつけることだ。』
そして何事よりも若い時期に本格的な自分の内奥の仕事を、無駄の骨折りを、栄光を離れての生活をうながした。「アルタミラのビゾン」以来崇高なリアリズムの問題は更に永遠に残っていくものかもしれない。だがKはこんなことを言った。対象が自分を刺激する触覚、つまりより体感的なリアリズムとしてそれに反応するように形が決められ色がおかれてゆく、そしてそのような触発の結果、もう対象はそれ以前の姿を変えているし感得された自個の軌跡がカンヴァスに宿っていく。――― こうした意見が、学校側の考え方とはかなり食い違っていることは分かっていた。
個人的には教授はそれに痛烈な異論は持っていなかったが学校の方針はそれでは受け入れられなかった。むしろその場合は学校をやめてその信念に生きるべきだと言うのだったが、学校は卒業したいし卒業制作には反則的な作品を提出するというのではあまりに勝手過ぎるというのだった。卒業証書にも色気を感じながらのこの非具象論は完全にこの場を混沌とさせた。やがて教授はそのズルサと不徹底な信念に「お前達が可愛いから言うのだ」と激昂した。このストーヴの周辺の激論はかなり白熱していたし、H教授が興奮のあまり声を震わせ、ある時は学生の胸グラをつかんでいたことは鮮明な色彩となって記憶された。そしてこの日の激論は三時間余りにわたった。このどたん場に至って初めてナマの人間同士をアカデミーで感じ得た。
夕刻沈黙のまま帰った。それから二ヵ月の後あるものは卒業証書のために具象に転向したし、またあるものは再度の描き直しのあげく半抽象の作品を提出して卒業していった。
美校での四年間は長いものにはあまりに長かったろうし、短いものにはまたあまりに短かったかもしれない。学生から労働者となり敢て言うならば、修業生活がそれからひかえていたのだが、それを生涯の生活と思うことによって社会人とも少し違っていたし、綱渡りにも似た、またある意味では僧侶とも同類と見做されるような場面がひかえていた。
学校生活で種々あったことも、ともかく快い汗を流した以外にはあまりに芸術の前提だった。そしてそのような前提が必要であったか、また不必要であったかと言う以前に「個人」であったかどうかということで多くの人間像が生まれていった。芸術は集団的には感得しにくいものなのだ。魁偉な薄暗い世紀末的な建築での、感動と自堕落の体験は個と類型の闘いであっただろうし、それが決して無慚な姿でうち砕かれなかったことの悲喜劇は「街」に新たな問題をひっ下げて行くことになる。
学校は少なくとも芸術の場としては一見なまぬるくステップで走り、さらに徐走以前でもあった。「学科」というノルマが芸術にはこうも多くの細目にわたる学問があるものかと思ったものだ。実際に「描ける」ようになったのは卒業制作という至上命令がのしかかってくる頃になってからで、描く時間にもっと熱っぽく支配されていてよかったと思う。
絵は多くの人によってさまざまに感じとられるものだ。そしてそれらの意見が組織のローラーで押しつぶされてしまったら、最早少しも生きた示唆を受けるものではないし、そうしたことのない生きた血みどろの闘いがそこに群がる人達によって、交流していかなければ何も残ってはいかないだろう。
すっかりカンヴァスが出てしまったアトリエには絵具やボロ布がちらばり、壁に「つわものどもが夢のあと」と木炭で落書きされてあったが、たしかに多くの「さむらい」たちはその借家から出ていった。そして少なくも十年後にも「さむらい」であるかどうか。
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パキスタンの留学生F氏とは夏からの知己であった。私はすでに学窓を出て、若い画家として出発していた。彼はそのころ二、三度仕事場にたずねて来て傍らで仕事を見ていたものだが、穂高から帰った後、山の話をすると、彼は自分の故郷がカラコルムのK2に近いと言った。
彼はラホール生まれだった。F氏の仕事についてはあまりよく知らないが、彼はパキスタンで多くの賞を獲得した後、美術学校の助教授となった。このアジアの中央から日本にやって来たパキスタン人は幾分孤独にやつれた瞳を向けるが、その人なつっこい微笑は青年らしさを感じさせ、日本に多くの期待と仕事の量とを背負ってきたことを思わせる。
そして少しでも日本人を感知しようとする鋭さが彼の体から発散している。
その細いきゃしゃな指先は意外なまでに敏感に動きもする。仕事から街に出ていくことの沈黙の壁を突き破ってゆくことは、耳殻の気圧差による間の遠のいた音響のように思え唾液をごくりとのみこむのだが、そんな時にこの外国人は全く楽しそうな表情をする。
丸善でビュッフェの画集をケースから出して暫くみていると彼は横から「ビュッフェは若いけれど金持ですね」と言う。
「あなたは」とたずねると「ぼくは貧乏ですよ」と答えたので「ぼくもですよ」と言って笑った。そして「ぼくたちはある意味で投機的に生きています」と言った。
「そうかもしれません、だがともかくも目的がなければ、すぐ明日という日の目的がなければ生きていけませんよ」
その時ふとある株屋が「君たちが絵をかくかどうか、それはぼくらによって決まってくることなのだ」と言ったことを思いだした。
(藝術新潮 昭和35年 2月號 〈特集〉芸術学校の教師と学生の惱み――学ぶものの悩み――より )